その、猫沢エミさんのインスタグラム投稿から。
移住地のパリから一時帰国で誰も住んでいないご実家に立ち寄った時の思いを綴った文章。
(両親亡き後、そのままの状態を弟さんが管理しているらしい)
ー〝永遠〟と結びつけるべきものは、形がないものだけ。生も、死も、愛も、命も。
確かにそうだなと思った。
なんかこの一文にガツンときた。
だって本当だもの。形あるものはいつかなくなる。
言い換えれば、物が残らなくても、思いは必ず残る。
その文章の前置きとして、こんなことが書かれていた。
ー確かに家族の歴史がそこにあり、思い出も詰まっているけれど、家も台所もしょせんモノでしかなく、形あるものはいつか失われるのがさだめだから、無理に残さなくてもいいんじゃないかというのが私個人の意見だ。
実家相続問題に直面した私は、私の気持ちがどこにあるのか見失い、いろいろと迷っていたので、この日の猫沢さんの文章に背中を押された気がした。
結局は修繕が必要で、そうなると私の知っている家ではなくなってしまう。
父が大好きだった庭を眺められる廊下も、午前中の日差しが眩しいコンピューターの部屋も、いつかはそのままの状態を保てずに形が変わってしまう。
ー形としての家は残っても、暮らしていた人が去ってしまうと、その空間はあっという間に誰ものもでもなくなってしまう。
もうそこには父はいない。残っているものは例え父のものであってももう父が使うわけでもない。
やがては邪魔になり、捨てられてしまうかもしれない。
そして他の誰かのもので埋め尽くされ、父を思い出すものはそこには無くなってしまうかもしれない。
ー大丈夫なのだ。モノとしての家をいくら手放しても、思い出は心の中で色褪せることなく保管されるのだから。そうなんです。
この家が私と関係がなくなったとしても、私は忘れることはない。
なんなら、昔のキッチンだって覚えている。
なんでこんな狭いキッチンにテーブルが置けたんだ?って今不思議に思うけれども、そこにはダイニングテーブルがあってそこでご飯を食べていた。
赤いフェイクレザーみたいなビニールクロス貼りの椅子があった。
私はその椅子(だったか、ハイチェアだったか)に座ってお箸を左手に2本一緒に握ってご飯を掬うように食べていたら、右手に持つのだと変えられた。
私はその時から食事の時の左利きは辞めた。
私の歴史が変わった瞬間はそこで起こった。←大げさだけどな
いろいろと葛藤もありましたが、こんな名言のおかげで私の道が開けた感じがしました。
なんなら、ブルース・ブラザーズが立ち寄った教会で、牧師のジェームス・ブラウンに
Do you see the light?
と聞かれるあのシーン。
あんなふうに光がスーッと差し込んできた気さえした。←かなり盛ってるけどな
そうして、きちんと実家とおさらばすることを決めた。
これから一時帰国の時は、私は彷徨うジプシーとなる。
どうにかなる。大丈夫。
※勝手に引用してすみません。が、全てが名言だと思いました。